塾に来ていただいた方は知っているかもですが
玄関に「塾長のための標語」というものがあります。
昨日標語を変えました。
ポール・ブルージュというフランスの作家さんの言葉です。
自分の考えた通りに生きなければならない
そうでないと
自分が生きてきた通りに考えてしまう。
・今年も高校入試が終わりました。
報告としては自塾の生徒はみな無事に入試をおえました。
彼らも受験にあたっては緊張はするものの、私としては受験というものへの意識が年々ゆるくなっていると感じています。
少子化の影響だと思いますが、それだけではなく、大人を見ての若い人たちの価値観の変化もあると思います。
一方でその変化に対する「このままでいいのか?」という不安や焦りというものも、大人の方にある気がしています。
実際はゆるくなっているけれど、どこか亡霊のような昔の価値観に囚われているような。
一昔前は「すご」かったけど、今も同じのようなフリをしていることって多くないですか?
例えば、学歴や肩書きも昔と同じフリをしていますがもう同じではないですよね。
MARCHなんて大学受験で使う言葉ですが、以前では考えられませんが最近は学生を集めるために、高校と連携を強めているんですよね。
政治家なんかも、昔は偉かった気がしますが、最近は中身が伴っていないし、発言とかどうなの?ってこともあるのに、
政治家だから偉いという扱いをされている、みたいな。
ゆるさ、ということを別のすこし硬い言葉で言うと学歴が権威主義的だったのが民主主義的なものに落ち着いてきているということでしょうか。
その中でいまだに権威主義的な考え方だったり、それを使いたい人が囚われているのかなと思っています。
教育に関わると「学力向上」という言葉がよく出てきます。
学力というと学ぶ力ですが、入試のように第三者がそれを評価しようとすると計測できるものに偏ってしまいます。
でも例えば芸術や人間関係やら計測できないものからもしっかりと「学んでいるという実感」が得られますよね。
「計測できる」ことばかりに囚われると、それらは視野から外れてしまったり一段下のものとされてしまいます。
日常においては視野の外にあるものを大人がちゃんと見てあげないと、子供達が学んでいくことはとても貧しいものになります。
受験について言えば権威主義が行きすぎると、もう「数字で測れるもの」以外の価値を感じられなくなってしまいます。
そうやって人間性を喪失した人間ができます。そしてそうした喪失した人間になることを、受験業界や教育に関わる者、そして一部の親たちが、喜んで歓迎していたわけです。
(一番それを望んでいるのは、将来入社する会社だったと思うのですが。)
皮肉めいたことを書きましたが、だんだんそうじゃなくなってきていますよね。
芸術や自分が好きなことや趣味、他の人に対する興味、友達、いろんなものを押さえつけて
受験をおえて、自分の学歴という権威を使って我慢していたものを取り戻そうとするような時代はようやく終わりつつ
あるのかなと思っています。
人間性も含めて、数値化できないものをちゃんと評価しあう。
受験やテストのあとにこそ、むしろ学習をする。
未来のために今を犠牲にしない。今も大切にする。
自分の塾の生徒を見ていると、そうした価値観が広がっているように感じています。
でも、世間的にはまだまだ少数なんですよね。。
利益追求や権威主義的な大人の影響がクラスを覆っている話も聞いています。
あらためて最初の標語。
自分の考えた通りに生きなければならない
そうでないと
自分が生きてきた通りに考えてしまう。
自分が生きてきた道(過去)に、大人たちが囚われて
子どもたちの幸せを阻害しないよう、
今、目の前の社会や将来の社会から教育をとらえていきたいと思います。
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