前々回、寺子屋や、藩校、若者組といった昔の教育の仕組みについてお伝えしました。
私たちは今、教育というと「学校に行く」と思っていますが、長い歴史を振り返るとそんなのはつい最近のことです。
150年前に始まった今の教育システム、昔と比較すると普段私たちが意識していない特徴がよくわかります。
【寺子屋との比較】
まず寺子屋は何歳からでも入れました。
一方、今の学校は年齢が来たら自動的に入学する。
年齢といっても4月から翌年の3月までなので1年の幅があるのですが、皆同じ扱いで、同じ内容を学びます。
年齢が同じでも中身、成熟度はバラバラなんですが「みな同じ、それが平等」。
「幼い子も大人びた子も、席に座って先生の話を聞くことを求められます。
それもとても苦しいことで、できない子には劣等感を与えてしまいます。
できる子、できない子のレッテルが貼られて、そのランクは同じ学年で進むのであまり変わらない。
保護者の方の中にはお子さんが小学校に入るときに心配された方も多いのではないでしょうか?
「ちゃんと座ってられるかな」「ちゃんとできるかな」と。
幼稚園の頃にはなかった不安が、小学校では保護者の表情や言葉に表れます。
それを子どもたちは察知して「まちがえないように」ときょろきょろ周りを見るわけです。
また「ちゃんとできない」ということで叱られて、自己肯定感を下げていきます。
「ちゃんとしなさい」という言葉は具体的に何をすればいいのかわからないので、子供は困惑します。
あまり使わないようにしていただきたいです。
【若者組との比較】
昔の教育には「若者組」というのがある、という話をしました。
15歳頃になると、大人の準備として「若者組」に入ります。
そこで少し上の先輩たちから祭りの準備の仕方や、大人のあり方を学び、村を担う大人になっていくんです。
現代でいうと、部活がその役割をになっているように感じますね。
部活の教育効果が高いとおっしゃる学校の先生がいらっしゃいますが、それはそうで
自分で選ぶ、そして少し年上から学ぶ、という点で部活は優れています。
ただ、若者組から考えると、部活の顧問、というのはあまりでしゃばる必要はないですね。
歳の離れた人間よりも、歳の近い先輩の方が影響は大きい。道を外したときに、叱るくらいで十分で
体罰や、ちょっとしたことでいちいち怒鳴ったりするのは他に目的があるようにしか思えません。
部活はスポーツですが、若者組はさまざまな催し、イベントを通して上の世代から責任を受け継いでいきます。
私が一番、今の教育で不思議だと思うのが
「勉強して、いい学校に行けば大丈夫」と思考停止していて、若者組のように大人としての振る舞い、行動を教える
ことが抜けていることです。むしろ成績や進学実績のために、なりふり構わないような空虚な大人の姿を見て、影響を受けてしまっているモラルが欠如した若者が生まれているように感じています。
そもそも自然と年齢を重ねれば身についていく、という考えの人に触れて大人のからっぽさを感じ、大人の教育について考えさせられる時が多いです。
【本質的な違い】
昔の教育と、現代の教育の決定的な違いは
人間(子ども)が中心か、制度が中心かの違いです。
今の学校は学校という制度に子どもを合わせる仕組みです。
合わない子は「だめ」という扱いをして、制度を維持しています。
そこからもれると、もう行き場がない。フリースクールが行き場になりますが
支援もなく、例外のような扱いです。
幼稚園や、保育園は子どもの様子から、制度を変えるのは学校に比べればやりやすいのですが
学校はそんな発想がないところがほとんどです。
子どもを中心として、制度を変えられる、変えていくのが今の大人の役割であると責任を持つこと、
これが今、できることだと思います。
「制度がこうなってるから仕方ない」「変なことして目立つのが嫌」
そんな心の声が聞こえますが
今の大人たちが子どもの頃に受けてきた「ちゃんとしなさい」という教育の成果が、
制度の維持に一役買っているということかと感じます。
ちなみにですが、日本各地には、制度よりも子どものための教育をしようとがんばっている所があります。
昨年から関わっている名古屋市の「スクールイノベーションプロジェクト」。
みなさまにも「成績を上げる」「いい学校に入れる」そんな思考停止から、
「人を育てる」教育に、もっと関心を持っていただければと思っています。
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